遊ぶように働くブログ

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遊ぶように働く(6)

2017年5月は、何から始めていいのか分からない状況だったし、すでに資金ショートしていたことは事実だった。

 

しかし、冷静に考えてみたら、このとき世間一般の業種に比べると「わたしの会社の資金ショートは資金ショートの定義に入らない」ということだった。

 

(1)業績不振による売上の低下
(2)売掛金の回収と買掛金の支払いの、タイムラグの悪化
(3)売掛金の回収不能

 

パチンコ店は(1)の「売上の低下」だけが当てはまったが、それ以外は現金商売なので関係なかった。

 

金融機関の支払猶予、買掛金の先延ばし、所有不動産の売却など、時間を稼ぐ方法はあった。(2)や(3)が重なるとどうしようもない。支払手形を多額に発行していたら致命的だ。

 

すでに金融機関支払猶予も、買掛金先延ばしもやっていましたが (^_^;)

 

5月中旬から税理士、金融コンサルタント、不動産業者、司法書士、金融機関などとの打ち合わせが始まった。

 

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つるたろうパーキングの固定資産名寄帳

遊ぶように働く(5)

このタイミングでのつるたろうパーキングの土地売却は、十分ベターな選択だった。

 

大阪市中心部路線価は、10年前のリーマンショックから5年間ほど下がり続けていた。しかしインバウンド需要の影響もあり、路線価は2012年頃に底をうち、2013年以降は上昇に転じている。

 

うちの会社は1980年代以降バブル前もバブル後も、時期を選ばす土地を買っていた。事業用に関しては隣地ばかりで、そのすべてが相場より割高な価格での購入だった。

 

ところが、そんな長い不動産購入歴で、唯一適正価格で買ったのがこの駐車場だった。この危機的な状況で、会社の営業に支障がないという物件があったことは幸いだった。

 

でも、そんな呑気な話でもない。

 

当たり前だが、パチンコ店の営業、組織、財務というヒト、モノ、カネに向き合う現実と向き合わなければならない非常事態に変わりはなかった。

 

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パチンコ営業のイロハから始めました。

 

 

遊ぶように働く(4)

2017年3月に「キコーナ昭和町店」オープンがあったので、振り返りでその年の繁忙月である1月と5月の「つる兄弟」成績を比較してみた。

 

まず5月の成績が1月対比で、売上で46%減売上総利益が58%減という結果。これでは「会社が存続できるはずがない」という現実。わたしは、この5月に仕事復帰した。朝呑みはなくなったが、途方もない無理難題だった。

 

まず本業に影響のない。つるたろうパーキングの売却で資金を確保する。そのあいだに営業を続け次の策を打つ。

 

土地は90坪ほどで、タワーパーキングが2棟。すぐ主要なネットサイトに売却登録をした。ここから1年、わたしは不動産売却事業者のような日々を過ごすことになる。

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つるたろうパーキングの跡地。売却後1年ほどたって、建設工事が始まった。

 

遊ぶように働く(3)

キコーナ昭和町店出店の詳細は、ジェネピ(パチンコ店のグランドオープン情報メモと綺麗なPOP収集を通じてパチンコ業界を応援します。)さんのサイトに詳細がある。

 

そのなかで「この場所は昭和町駅前の狭い戦いになると思いますが、ライバル店はつるたろうセブンとつるボックスのつる兄弟。」と記載があり「つる兄弟」に笑ってしまった。

 

この記事が2016年11月30日、この1年後に昭和町撤退の決断をする。当時わたしは仕事もせず朝からお酒を飲んでいた。

 

そして2017年3月25日キコーナ昭和店がグランドオープン。

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左端白がつるたろうパーキング、手前赤がキコーナ昭和町店、正面がつる兄弟(笑)

 

 

 

遊ぶように働く(2)

借金は20億円超えるのに、2001年に親戚のパチンコ店を助けてみたりした。結果はわたしの力不足で撤退。銀行だけで24億円の借金が手もとに残った。

 

1年に1億円返しても24年間、どんな結末かなんて誰にもわからない。そんななか、経験もなくジャンボロール事業を始める。こちらは多くの方から出資をいただくも、赤字の連続。

 

大阪市阿倍野区御堂筋線昭和町駅前1号出口すぐで、パチンコ店、スロット専門店、駐車場を運営していた。2017年そこに大手競合店が出店。そこから怒涛の日々が始まる。

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今の昭和町駅前

 

 

遊ぶように働く(1)

大学卒業後、パチンコ店従業員として働き始める。バブルの恩恵もなく、休みは月一ぐらい、お酒とたばこにまみれて気づけば30歳を超えていた。10年間の仕事で自分が習得したものは、不良客の排除と簿記の知識ぐらい。

 

 嫌な仕事はストレスがたまるもので、普通の会社になろう!考え始めていた。しかし、2代目社長になったばかりでお金の本質が分かっていない。会社の体裁は整えるが、本人が何も知らないだから成長もない。

 

売上は急上昇するも借金が増え、浪費も増える。バブル崩壊後、銀行員に怒鳴られるような毎日。40代になるとそのツケが一気に回ってきた。厄年のころには心身もボロボロ、行き場を失っていた。

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アーバンリサーチで売っていたアートディレクター「KOJI TOYODA」の作品

 

何を言いたかったかわからんスピーチ

2017年12月30日父親が亡くなりました。そのときスマホで打ちこんだ、お通夜挨拶原稿です。

 

本日は元旦のお通夜になりました。皆さん本来お家でゆっくり過ごす日なわけですけれど、お天気にも恵まれ、帰省で大阪に帰っている人もいて、故人山本学にとっては、良い日だったかもしれません。

 

わたしの父である山本学について、少々退屈ではありますが、お時間をいただきいと思います。

 

父親の祖国である韓国には族譜という分厚い家系図がありましす。先祖は新羅時代の学者、崔致遠(チェ・チウォン)慶州崔氏といいまして釜山の北にある観光地付近です。新羅時代は10世紀頃までであり、ほんとに家系図が続いていたらすごいことだと思います。

 

わたしが小学校4年生のときに、初めて父親の故郷を訪ねました。当時韓国南東部木浦市から蒸気船で3時間半かかった小さな島です。

 

1592年文禄・慶長の役で多くの一般人が西方に逃れたそうです。豊臣秀吉軍が朝鮮半島に出征した戦争だったわけですが、父親が大阪に来たのも歴史的には面白い話だと思います。

 

父親はこの小さな島で1929年に生まれました。

 

母親の山本和子とは、日本で結婚し親戚の愛媛県松山市近くでパチンコ店を手伝っていました。ここで長男が生まれます。1956年のことです。

 

その後、山口県岩国市に転居し、初めて自分たちのパチンコ店を営むことになりました。父親が30歳になる年でした。わたしはここで生まれたのですが、まったく記憶にありません。

 

数年後横浜市鶴見区に移転し、ここでもパチンコ店を営み1964年に三男が誕生します。どうしても女の子がほしかったようで、家には女の子用のベビー用品が用意されていた記憶があります。初めての一軒家に住むことになったのですが、またもや引越しが待っていました。

 

この東京オリンピック開催年に大阪に引っ越すことになりました。幼少期の記憶が、すごく少ないのはこの引っ越しの多さかもしれません。父親のこともあまり思い出せません。

 

大阪からやっとに父親との思い出が始まります。

 

一言でいえば、厳格で教育熱心な父親でした。寒いところに裸で放りだされたり、よく怒られたようなことばかりが思い浮かびます。

 

ゴルフ、囲碁が趣味でした。どちらかでも、いっしょに過ごす時間を持っていたら、という思いばかりがつのります。

 

本日はまことにありがとうございました。

 

人は混乱すると、とんでもない文章になるんやと反省しかり。