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何を言いたかったかわからんスピーチ

2017年12月30日父親が亡くなりました。そのときスマホで打ちこんだ、お通夜挨拶原稿です。

 

本日は元旦のお通夜になりました。皆さん本来お家でゆっくり過ごす日なわけですけれど、お天気にも恵まれ、帰省で大阪に帰っている人もいて、故人山本学にとっては、良い日だったかもしれません。

 

わたしの父である山本学について、少々退屈ではありますが、お時間をいただきいと思います。

 

父親の祖国である韓国には族譜という分厚い家系図がありましす。先祖は新羅時代の学者、崔致遠(チェ・チウォン)慶州崔氏といいまして釜山の北にある観光地付近です。新羅時代は10世紀頃までであり、ほんとに家系図が続いていたらすごいことだと思います。

 

わたしが小学校4年生のときに、初めて父親の故郷を訪ねました。当時韓国南東部木浦市から蒸気船で3時間半かかった小さな島です。

 

1592年文禄・慶長の役で多くの一般人が西方に逃れたそうです。豊臣秀吉軍が朝鮮半島に出征した戦争だったわけですが、父親が大阪に来たのも歴史的には面白い話だと思います。

 

父親はこの小さな島で1929年に生まれました。

 

母親の山本和子とは、日本で結婚し親戚の愛媛県松山市近くでパチンコ店を手伝っていました。ここで長男が生まれます。1956年のことです。

 

その後、山口県岩国市に転居し、初めて自分たちのパチンコ店を営むことになりました。父親が30歳になる年でした。わたしはここで生まれたのですが、まったく記憶にありません。

 

数年後横浜市鶴見区に移転し、ここでもパチンコ店を営み1964年に三男が誕生します。どうしても女の子がほしかったようで、家には女の子用のベビー用品が用意されていた記憶があります。初めての一軒家に住むことになったのですが、またもや引越しが待っていました。

 

この東京オリンピック開催年に大阪に引っ越すことになりました。幼少期の記憶が、すごく少ないのはこの引っ越しの多さかもしれません。父親のこともあまり思い出せません。

 

大阪からやっとに父親との思い出が始まります。

 

一言でいえば、厳格で教育熱心な父親でした。寒いところに裸で放りだされたり、よく怒られたようなことばかりが思い浮かびます。

 

ゴルフ、囲碁が趣味でした。どちらかでも、いっしょに過ごす時間を持っていたら、という思いばかりがつのります。

 

本日はまことにありがとうございました。

 

人は混乱すると、とんでもない文章になるんやと反省しかり。