小学校6年生の夏 その1
小学校6年生のときの少年の船は、今でも忘れられない。いろいろな小学校から子どもたちが集まり、1週間ほどの船旅をした。
大阪港から目指すはまず台湾。たぶん2泊で到着したと思う。基隆港に着いて、船から降りて地面に立つと頭がクルクル回っていた。到着までには何回もゲロを吐いていたんで当たり前。
わたしは子どもの頃、数時間のバス旅でも乗り物酔いがひどかった。大人になってもトライアスロンの海スイム、少しの波でも吐きながら泳ぐレベル。
1970年。台北でいもいろな行事があったはすだが、覚えていない。ただ、まだ日本で高級品だったバナナが道ばたでゴロゴロしていた記憶がある。配られたお弁当にもバナナは入っていたが、体調不良もあり、ありがたみ極小(笑)
好きなことから時間をうめる。
たぶん成年になると、ふつうに仕事をして給料をもらい1ヶ月がすぐ終わる。
生まれてから学生までは、入学式からの運動会、つまらない授業を我慢したり、その代わり文化祭ではしゃいでみたり、なんか季節感がある。
社会人になると、その起伏が平坦になる。そして学生のときの数倍の速度で毎日が過ぎ去っていく。
仕事のために生きていくのは当たり前。でも好きなことを忘れてしまい30代、40代ぐらいになると、100倍ぐらいのスピードで日々が過ぎ「浦島太郎」状態。
好きなことに継続的に時間を費やすことができているのか?という点検は必要。
わたしは歯医者さんのメンテナンス予約を、毎月予定表に入れている。こんな感じで、好きなことを毎週、毎月予約を入れる習慣が大事かなぁ。
おでん作 その3
まあそんなノリで、おでん作の息子さん(中学生?)からおじさん、おばさん含めて30キロの自転車ツーリングは始まった。
ロードバイクをふだん乗りしていたわたしは、もの足りんなぁ、なんて思いながら走っていた。からの、まさかわたしの全身ジンマシン。
みんなが心配してくれての薬局探し。薬買う、また走り始める。無事民宿到着、大宴会。
翌朝わたしだけ、洲本からたぶん高速船でパチンコ店開店に間に合うように帰阪。
みんながどうやって大阪に帰ったかは覚えていない。
そこから、コミさん、チルドレンのママさん、長友さん、黒田さん、いろいろな方にお世話になった。
おでん作 その2
呑み仲間全員がマウンテンバイクをもっていた。チーム名があって、島田さん命名「スケベッターズ」。エリートサラリーマン大塚さんなんかは、むりやり買わされていた記憶が(笑)
もちろん強制的に小薮自転車店で購入!そんな縁から自転車ツーリングに出かけることに。第1回目に淡路島へ行くという。大阪から淡路島まで自転車で走れるようなメンバーじゃなかった。もちろん明石大橋のない時代。
ツーリング前日、小薮お父さんがトラックで、みんなの自転車を回収しに走る。当日朝はJR(だったかな?)大阪駅に集合。10人ほどで電車に乗って明石駅、そして淡路島行きのフェリー乗り場へ。そこには小籔さんが自転車満載のトラックで待機していた。
フェリー上、みんなで海を見ながらビールを飲む。気持ちいい潮風にふかれて、20分で淡路島岩屋港に到着。
おでん作 その1
居酒屋って面白い!とはまったきっかけが、阪堺電車東玉出停留所近くにあった「おでん作」だった。
わたしはパチンコ店でホール業務をしていた。毎日仕事終わりは午前1時ぐらい。遅い時間でもやってるという理由から通い始めたが、ママがしゃべり始めたら朝までなんて日も。
なんともいえない不思議な空気がそこにはあった。ピークはのときは、世代を越えた部活みたいな感じ。今でも奇跡の組み合わせだったと思う。
もう時効なんで実名でいきます(笑)
病院検査技師の大城さん、NTT (当時は違う名前のはず)勤務牧田さん、クボタ勤務大塚さん、自転車店経営の小籔さん、憂歌団の島田さん。ここらへんが超常連。
書くこと多すぎてどないなるんやろう。
土地を買い続けて45周年 その3
この「土地を買い続けて」シリーズはアクセス数が稼げないので、やめたいのですが予定より早めに終わります。もう少しおつき合いください(笑)
1964年、東京オリンピックの年に横浜から転居してから、しばらくは「ラッキー万代」1店舗を地道に営業していた。
引っ越したのが夏休みだったため、年長組だったわたしの幼稚園は決まっていなかったと思う。退屈だけが記憶にあるのだが、あべの筋(当時は国道13号線)を走った聖火リレーは今でも鮮明に覚えている。
そして8年後、1972年「昭和会館」購入する。わたしは中学生。万博後、高度経済成長まっただ中だった。
ここからわが家の「隣地購入人生」は始まった。